The history of

KYOTO NHK ESS

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A PERSONAL HISTORY OF KYOTO NHK ESS BY HORI(3)


 

 1978年度(1977.10〜1978.9)のことです。財政が600円ちょっとになり、リーダーひとりだけ参加のサークルが生じたのは。どうしたかって。リーダーがサークル費を立て替えたのです。私はその当時それほどサークルには行っていません。大学のことが忙しかったからです(卒論、大学院など)。ある時サークルに行きました。男子学生が5名。"Oh, today is not Saturday, but Manday."しら〜。だれも笑いません。こういう雰囲気では新しい学生が入ってきても、その空気になじめません。すぐに離れていきます。私もやめようかと思っていました。

 9月2人のメンバーから恐ろしいことを言われました。サブをするからリーダーをしてくれと。最初は断りました。でもこれまでお世話になったからと結局引き受けました。しかし空回りの連続。11月奈良公園へのハイキング。6名です。そのうち4名がスタッフですから。12月合宿。「この合宿は失敗でした」と前リーダーから言われました。自分もそう思ってました。会計の女の子がやめました。陰で聞いた理由は「みんながきらいだから」だとか。前リーダーも来ないと言いました。そして私を勧誘したサブリーダーの子も大学をやめて東京で役者の勉強をすると言ってやめていきました。そして3月。1年前の再現です。1人だけのサークル。だれも来ませんでした。

 サークルを続けていくためには残された道はひとつだけです。勧誘活動。もうなりふり構っていられません。English Journalに手紙を出しました。京都新聞などにも手紙を出しました。「うちの子の英語を見てやってくれますか」という電話もいただきました。そしてポスターはりまくり作戦。京都女子大では守衛さんに追い返されました。

 過去のしがらみを断つこと。新しい世界へ。チェーホフの『桜の園』、ドボルザークの『新世界から』、そして大阪の新世界(関係ないか)。何とか少しずつメンバーは増えていきました。でも来る人の多くは学生でした。5月2度目のハイキング、6月2度目の合宿。半年前よりは良かったと思いました。

 しかし、サークルが活発になるにつれて自分自身大変な問題をかかえてしまいました。リーダーの間、1年間で3日以外はすべてサークルに出席しました。(当時は出席者の名簿・ノートもつけていたのです。これは次期スタッフには役立ちます。)しかし大学院で修士論文を書かねばならなかったのです。そしていつしか大学の授業や行事よりもサークルのことを優先する体質を身につけていたのです。大学の研究室のコンパなどもあまり行きませんでした。指導教官は当然良く思っていません。でもその理由は言いませんでした。言うとこうなるでしょう。「おまえはそのサークルとやらと大学の仕事とどっちが大事なのだ」「当然サークルです」。こう思っていました。これでは口にできるはずはありません。私は学校では貝になりました。

 では、なぜその当時そこまでこのサークルにこだわったのか。それは、ひ・み・つ。

 

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