養泉寺界隈 5
by Akira Nakanishi


<耳 塚>

豊国神社前、正面通りの南側に7メートルにも及ぶ大きな盛り土の上にそびえる石塔があります。石塔自体、6メートルもある巨大なものです。 特に史跡とかの指定は受けていませんが、『耳塚』と呼ばれ、これも秀吉にまつわる有名な歴史的遺跡です。
まず『耳塚』に対しては異論がありますので、先にそちらのほうから紹介しておきましょう。つまりこの塚は豊臣秀頼により再建された方広寺大仏を鋳造した際、不要になった鋳型を埋めた塚で、『御影塚(みえいつか)』がなまったものだ、と言う説です。

一方でそのような異説があるにもかかわらず、この塚は江戸時代の比較的早い時期から『耳塚』として、一定の歴史的役割をになってきたものなのです。

さて豊臣秀吉は、国内を平定するとさらに視野を国外にむけました。
二度にわたって、朝鮮半島に出兵したのです。その理由は秀吉による、領土的野心で、目標は朝鮮半島を超えて中国本土・明王朝にまで及ぶ壮大なものでした。日本では出兵した年号から『文録・慶長の役』と呼び、朝鮮では『壬申倭乱』と呼ぶこの事件、西暦では1592年と1596年に勃発した歴史的事件です。

戦国時代の合戦では、参加した兵士が自分の手柄を証明するために倒した相手方大将の首を切り取って自陣にもちかえり、確認の上論功行賞がおこなわれました。腕自慢の兵士は腰に首をくくりつけてさらに別の大将首を求めて戦うという場面が戦場の常であっただろうと思われます。朝鮮へ出兵した各部隊も、やはりそのような形でおのおのの手柄を示していたのですが、総大将である秀吉は朝鮮へ渡らなかったために、数万におよぶそれらの首を直接検証することができません。かといって、多くの首を日本に送るというのも困難なことでした。
そこで出された命令が、倒した相手の耳・鼻を切り取って塩漬けにしたうえ日本に送れ、というものでした。
この命令に従って、朝鮮半島で戦った各部隊は、それぞれ大量の耳や鼻を大きな樽に塩付けして博多や大坂に送り、さらに陸路京都まで運ばれた分について秀吉自身が検分した上、方広寺前に巨大な穴を掘って埋め、その上に塚を築いたと伝えています。

現在の巨大な石塔は、明治時代据えられたもののようのですが、江戸時代中ごろに出版された『絵本太閤記』にも石塔が描かれていますから、はじめからこのような形で塚が祀られていたことには間違いありません。
周囲の石柵は往年の芸能人によって寄進されたもので、中村雁治朗などかっての有名な歌舞伎役者やオッペケペー節で一世を風靡した川上音二郎などの名が刻まれています。

さて、この耳塚が果たした歴史的役割について触れておきます。
江戸幕府は鎖国政策をとりましたが、完全に諸外国との門戸を閉ざしたわけではなく、長崎・出島を通じて貿易を行いましたし、近隣諸国との外交関係の維持にも努めました。
そして、江戸時代を通して日朝関係は比較的良好でした。これは、朝鮮半島を治めていた李王朝にしても、突然秀吉の様に侵攻されてきては困るという思惑もあり、徳川将軍が代替わりするたびにお祝いの使節団を派遣していました。朝鮮通信使あるいは朝鮮来聘使というこの使節団、釜山を出て対馬・壱岐・筑前藍島・長州赤間関から瀬戸内海に入り、大坂から淀川を経由して京都からは陸路江戸へ向かうというコースが定められていました。
総勢3〜400人の使節団一行を受け入れる幕府側も、大変神経を使うものでした。
さて、その一行、京都へは伏見街道を北行しちょうどこの方広寺前を通るのです。そして時にはこのあたりで休息を取らせたようです。
その際、この『耳塚』の存在は極めて微妙なものでした。ある時は幕府はわざとこの耳塚を朝鮮の使者に見せることによって、無言の圧力をかけ、日本の優位をみせつける道具としたこともあったようです。
ただ、毎度そうだったわけではなく、初期のころは一行がこのあたりを通過する際には、耳塚に覆いをして眼に触れないようにしたとの記録もあります。
またあるときは、使節団が涙しながら、この塚に拝礼したともあります。
『太閤記』の最終章はこのように記述されています。
この後、朝鮮人来朝の時、かの耳塚を見て涙を流し、この塚に耳鼻を葬りし者は、皆わが国の忠臣、死をもって国恩を報ぜし人なり、といふて塚の下にて香を焚き祭文を読み上げてねんごろに弔いける
この耳塚は、12回、200年と長きにに渡り朝鮮通信使を迎える際に、それぞれの時代背景に応じて、外交的道具として重要な役割を担ってきたのです。

さきに紹介したように、ただ大仏殿の廃材を埋めたにすぎないと言う異説があるにせよ、実態はもはや検証できないものの歴史的事実としては朝鮮人の耳・鼻が埋められたものとしてみなされており、今も毎年それぞれの時期に朝鮮・韓国人が花をそえてお参りされている歴史的遺跡であることは動かしがたい事実なのです。

耳塚のすぐ東隣りに石柱があり

  『明治天皇御小休所下京第廿七区小学校址』

と記されています。
維新の混乱が収まって以降、明治天皇は各地を視察され、そしてこの場所にも立ち寄られました。 昭和初期の軍国主義政府は、天皇を現人神(あらひとがみ)と神格化し、また明治天皇は日露戦争で大国ロシアに負けなかった天皇ですから、国威発揚のために明治天皇ゆかりの場所を全て『史跡』に指定したのです。
この場所の石柱は昭和16年に設置されましたが、昭和10年以降に設置されたこの種の石柱は京都市内に多数残っています。
もちろん戦後、『史跡』指定は解除されました。

  次へ