「過去からの便り」

by 佐藤 博悦

2001年1月1日、年賀状の束と一緒に、過去からの便りが届いた。過去からの便り?そう、過去からの便りです。国際科学技術博覧会------聞いた事がありますか?1985年、筑波で科学万博が開催されました。出張で出かけた会場で、15年後の2001年1月1日に届く葉書を2通出しました。1通は自分宛に、もう1通は家内宛に。
「科学万博ポストカプセル2001」というヤツです。それでは、15年後の自分宛に出したハガキの全文をご紹介しましょうか。

-------1985年3月22日は薄曇りの肌寒い日。現代科学の粹を見んとて来てはみたが、ビックリする程のものはなし。2001年に生あらば、又記憶をたどり15年後のその時と比べてみたい。コンピュータ、人工知能、医学の進歩に期待したい。------

15年前には、パソコンもインターネットもなかった。500円以下で買える電卓もなかった。茶髪の若者がケータイでメールのやり取りをする姿もなかったし、2足歩行の出来るロボットもなかった。試験官ベビーは誕生していたが、脳死の人からの心臓や肺の移植はまだだった。クローン牛も登場していなかったし、遺伝子組換の大豆もなかった。しかし、15年経っても変わらないもの、その一つはーー養泉寺の京都NHK・ESS。いや、それも少しは変わったかな?(その2に続く:続編をお楽しみに)

今日は9日、いよいよ職場も学校も街も始動しました。通勤電車もいつもの込み具合でした。さて、その2をお届けします。読んでくれているのかなあ〜。養泉寺を初めて私が訪ねたのは、科学万博の前年86年の初夏の頃だったと思います。きっかけは、リビングというミニコミ紙に載ったESSの3行広告(案内)でした。当時のリーダーは、現在、大阪のESSを切り盛りしている森良男さん。毎回の出席者は、多くて4、5名。ひどい時には、2名なんていう時も。今と大きく違うのは、場所がお寺の本堂ということでした。大きな黒光りする仏像を前に、薄暗い蛍光灯の下で、冬にはオーバーを着込んで、夏には蚊にいいように食われて-----。今にして思えば、環境はジゴクでした。開始は5時からでしたねえ。アフターエイトのスタイルは今と変わりませんが、場所は決まって交差点角のマクドナルドでした。当時はメンバーが少なくて困っていましたよ。当然会費収入も少なくて、テレコを買えるようになったのは、会場が今の書院
に移ってからでしたね。当時のメンバーで今も残っているのは、堀さんです。やや幽霊メンバー気味ですが、小栗さんもですかね。では、何故当時中年真っただ中の私が、20歳代の独身青年の仲間に臆面もなく入っていったのか、いささかかの理由がなきにしもあらず、であります。先に、筑波の科学万博はビックリする程のものではなかったと印象を書いています。その理由は、筑波万博の前年に、フロリダ州のオーランドにあるでディズニーワールド(DW)を見ていたからです。筑波の科学技術の仕掛けは、DWのまるでミニ版のように思えてさほど感動しなかったからです。で、養泉寺の英語とどんな関係があるの?(その3に続く:続編をお楽しみに)

月6日の省庁再編で、1府12省になりましたね。総務省というのができましたが、英文名をご存知ですか?会社では、総務部はさしずめ Department of General Affairsとでも言うのでしょうがーーー。Ministry of Public Management,Home Affairs,Posts and Telecommunicationsというのだそうです。こちらの方が、仕事の中身が想像できますね。さて、過去からの便りはこれが最終回です。随分と昔の話になります。私が初めてアメリカに出張したのは成田空港が出来る前、76年のことでした。先輩とさる会社の技術調査に出かけたのです。有難いことに、会社からは米国人社員の通訳付きでした。仕事はまあ順調に進みましたが、困ったことは、ヒルメシとバンメシのヨコメシの時でした。英語での世間話は聴いても皆目分からないのです。言いたいことも、これは3人称単数現在でーーーなんて考えているうちに、話題はコロコロ変わって、口を挟むことなんて全くと言っていいほど出来ませんでした。嗚呼、大学出
が何たるザマだ!と自分が情けなくなりました。彼らは何が面白くて笑っているのか? などと考えたら、分厚いステーキの味も楽しめず、「帰国したら英会話をやり直そう」と決心したのでした。目標は、一人で海外出張でき、満足な仕事ができるレベルに。その後も欧米への出張は何度かあり、英語もいろいろやってみていましたが、一つは自分自身へのさらなる刺激のために、もう一つは人の輪を広げるために、敢えて養泉寺の若者の中に入れてもらうことにしたのです。幸か不幸か、その後も英語を使うチャンスが増えましたので、養泉寺通いは明らかにプラスになったと思います。到達レベル判定のために、TOEICは何度も受けましたし、会社のテストも若い社員に混じって受けました。今年からは、定年にともない仕事で英語を使うことはほとんどなくなりそうですので、これからは肩の力を抜いて、国際語としての英語を、前からやっている中国語と共に、楽しみながら修学していこうと思っています。今年も、事情が許せば海外で行きたいところがありますので、錆落としに(語弊があるかな)若い皆さんの輪の中にいれていただこうと思います。よろしく。

では、また養泉寺でお目にかかりましょう! (終)