The history of

KYOTO NHK ESS

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A PERSONAL HISTORY OF KYOTO NHK ESS BY HORI(5)


 

  大学院の博士課程に進まれた方はおわかりかと思いますが、このあとの就職は日本(あるいは海外)どこになるのかわからないのです。1984年福井県の大学に就職が決まりました。ESSに来ることは物理的に不可能です。最後の1週間なぜか二条城と平安神宮に行きました。京都にずっと住んでいてまだ行ったことがなかったからです。

 福井へ行き、大学のESSのサブ顧問をしました。でも短大で実習などの多い学校ではこのクラブの存続は難しかったです。外国人の集まる英会話喫茶にも行きました。でも行ってみるとだれもいないということもありましたし、外人の方は彼ら同士で固まる傾向もありました。

 結局出張などの折りに重ねてサークルに立ち寄ることになりました。知らぬ間にいろいろなタイプの人が集まっていました。英語以外が目的だと公言する人もいました。陰でこっそりとプレゼントを渡している姿も目撃してしまいました。(だれがだれにかは言えませんが。)しかし、たまに行きますのでだれがだれやらわかりません。かわいい女の子を見つけても福井県まで来ませんかとは言えません。総理府が日本一住みやすい県だというデータを示しても若い女の子は納得しません。雪は1m以上積もりますし、若者は街であまり見かけません。バスは1時間に1〜2本で、日曜日の最終バスは19時55分。総理府は正しいデータを示す必要があると思います。 このころはサークルのあとにビリヤードやディスコに行ったりしました。一人でスキーのリフトを止めたとかの数多の伝説を残したOさんにも出会いました。クイズ大会でアラスカに行き、飛行機から出ることなく帰国したK氏、ファッションホテルはファッショナブルなホテルだと思っていたYさん、はでな女性が好みといううわさのSさん・・・あ、みんなまだ健在だ。これ以上しゃべらない方がいいかも。

 驚いたこともありました。NHKテキストに紹介文が出た時、じつに100人以上の連絡があったとか。レジュメが40枚くらいいったのを覚えています。スタッフは自然消滅を待ってニューカマーにはあまり親しくされませんでした。そこで去っていった人の中にいい人がいたのかもしれませんが。

 あと小さな変化としてテキストレビューの時間にビジネス英語を使うことも始まりました。最初のころのテキストは新鮮だったのです(が)。また以前は活動をお寺の本堂でしていたのが、いつしか別室でするようになりました。本堂の場合、人数が少ないとこたえますとともに、電気スタンドがなく暗くて字が読みにくいこともありました。でも机に向かわない分、自由な雰囲気もありました。黒板を使ったりスキットもしやすかったようです。

 1992年4月、縁あって大阪(半分奈良)に異動しました。(前の大学はつぶれました。)そこでまた話が出ました。ESS30周年(1992年)に何かしますか、と。文集を出しTシャツをつくることにしました。文集はMilestoneと名付けられ、柳瀬さんが表紙を描きました。このころから徐々に学生の比率が減って社会人が増えてきました。そしてメンバーの平均年齢も上がっていきました。私は一体いつになれば最高齢になるのでしょう。

 

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