<京都大仏> 養泉寺前の本町通りを上がって行くと、正面通りをこえた右側に特定郵便局があります。 名前は『京都大仏前郵便局』です。 七条通りを東へ、京都国立博物館の手前に派出所があります。 名前は『大仏前交番』です。 これらの名前から判断すれば『後ろ』に当然大仏があるはずですが、どこを見渡しても大仏なんて、このあたりにはありません。 しかも、これらの交番や郵便局ができる、はるか前に無くなってしまっているのですが、でもその名前だけはしっかり残されているんですね。 さらにこんなわらべ歌も残っていて、京都育ちなら小さい頃に一度は耳にしているはずです。 「京の京の大仏つぁん」 ♪京の京の大仏つあんは 天火で焼けてな♪ ♪三十三間堂が 焼け残った♪ ♪アラどんどんどん コラどんどんどん♪ ♪うしろの正面 どなた♪ その『京都大仏』の話をします。 天正13年(1585)天下をほぼ手中におさめ、関白となった豊臣秀吉はその力を誇示するために奈良・東大寺よりも大きな大仏の建立を計画しました。 出された命令は『東大寺は20年かかったが、5年で作れ。堂の高さは20丈、大仏の大きさは16丈』というもの。 東大寺・大仏の高さは15m弱ですが、それを軽く上回る約19mの大仏を作れというんです。 (注:「丈」は普通10尺=3.03mですが、その計算だと約48mという巨大な像になります。ところがごく稀に、丈=4尺=1.21mとする例があります。) そして建造場所は東山の麓、京都・奈良を結ぶ街道沿いで、当時空き地であった三十三間堂の北側あたりとされました。 命令を受けた五奉行は、東大寺のような金銅仏ではとても時間的に間にあわないため木造仏とすることに決定し、各地から木材を手配し、さらに刀狩りで没収した刀剣を溶かして大量の釘やかすがいを準備しました。 大仏を祀る寺院は『大方広仏華厳経』に因んで『方広寺』と名付けられ、その建設予定地へは大坂城を造った際と同様に、次ぎから次ぎへと巨石が運ばれてきました。 さて石垣といえば城を連想しますが、城を作る際に石垣を設ける様になったのは織田信長のアイデアです。 それ以前は土盛りの上に櫓などが築かれていました。 比叡山の麓、穴太(あのう)という集落には、比叡山・延暦寺の諸堂を建てたり修理を請け負う専門の職人が住んでいました。 彼等は穴太衆(あのうしゅう)と呼ばれ、山肌の傾斜地に建てる必要上、土台に石垣を用いる高い技術を持っていました。信長はその技術に目をつけ、彼等穴太衆をめしかかえて、安土城やその他の城郭の建築に従事させたのです。 穴太衆は本来は自然石を用いて石垣を組み、その手法は穴太積み(あのうづみ)と名づけられているのですが、京の町中で室町将軍のために二条城(二条館)の建築を命じられたときには、そのような自然石を集める時間が与えられませんでした。 信長が京に滞在する僅かな期間に作らなければなりませんから、とにかく手当たり次第手ごろな石という石を全て、石垣に転用するよう命じられ、そしてその通り廃寺の土台石や石臼さらには石仏や墓石までも用いたのです。 昭和56年頃、地下鉄烏丸線の工事現場で実際に石仏や石臼が組み込まれた石垣が発掘され、その話が実話であったことが証明されました。 秀吉は当然このことを体験していましたから、大仏殿も通常の石垣では将来寺運が衰えたときには、簡単に石垣を壊され持ち去られてしまうと考えたのでしょう。 だから大坂城同様この大仏殿でも、諸国の大名に命じて簡単に運びさることができないような巨石を献上させたのです。 | |
これらの巨石、いかだを組んで瀬戸内海から淀川を遡上し、伏見からは陸路運ばれたのですが、運搬人を元気づけるために石の上に遊女をのせて音頭をとらせ、笛や太鼓ではやしたてて、到着する頃には秀吉自身が木やり歌をうたって出迎えたと伝えています。 多くの巨石の中でも西北角の石は『泣き石』と名付けられていますが、加賀の前田家が献上したもので、あまりの重さに人夫一同が泣いたからだと言う話まで残されています。 | |
こうして運ばれた巨石には全て献上者の家紋が刻まれていたと伝えますが、今は風化してしまったのか、家紋は確認できません。 さて、天正14年(1586)着工の京都大仏、予定は遅れたものの9年後の文禄4年(1595)に竣工し、各宗派の僧1000人を集めた盛大な開眼法要が営まれました。 『大仏千僧会』と呼ばれたこの法要のためには様々な準備が必要でした。 たとえば千人もの僧を集めるわけですから彼等が一時に食事がとれる場所も必要でした。そのために巨大な庫裏(台所)が妙法院内に建設されました。 京都国立博物館の東側、妙法院の門越しに見える大きな建物がそれで、この種の建物としては唯一国宝の指定を受けています。 そして無事開眼法要を終えた京都大仏ですが、翌年、年号が慶長に変ったところで大地震が京都南部地方をおそいました。慶長大地震と呼ばれるこの地震、震源は紀伊半島沖で南海大地震であったと思われます。 当時伏見城にいた豊臣秀吉はこの地震で甚大な被害をこうむりました。 城のあちこちが壊れたのみならず、完成したばかりの大仏殿までが倒壊してしまったとの報告を受け、これは一大事、京の町の被害はどのようなものかと心配しました。秀吉は、急いで御所へお見舞いにいったのですが、なんとその途中に見える京都の街はほとんど被害を受けていなかったんです。 これには秀吉も頭にきたようで、方広寺に立ちより『国家安穏を祈願した大仏が、自身を守れないようでは信じるに足らん』と壊れた大仏に向かって矢を放ったといいます。 初代の京都大仏はこうしてあっけなく壊れてしまいました。 そして秀吉亡き後に、これを再建したのが豊臣秀頼です。 慶長19年(1614)同じ場所に、今度は金銅製でほぼ同じ大きさの大仏が完成しました。 しかしその梵鐘をめぐる一件で豊臣氏は滅亡し、以後方広寺も衰微していき、寛文2年(1662)の震災で壊れた際に、もはや復旧は無駄と判断が下されて、残った大仏は溶かされ、寛永通宝に改鋳されてしまいました。 このことによりその当時の貨幣は『大仏銭』と呼ばれました。 その後、建てなおされた本堂には木造仏が安置されていましたが、たびたび火災にあい、修理されるたびに本堂は小さくなっていきましたが最終的に昭和48年の火災で旧本堂はすべて焼失してしまいました。 結局京都大仏に関して残ったのは前述の方広寺梵鐘および風鐸と、この巨大な礎石です。 大和大路に面し、京都国立博物館の北側にならぶこの巨石群は『方広寺石塁』として史跡に指定されています。 次へ |