<豊国神社> 養泉寺の北方にある東西の通り『正面通り』は、かって方広寺の石塁上に威容を誇っていた京都大仏の<正面>を意味します。 ところが、大仏が無くなってしまったことと、この正面通りを西に延ばした位置上に東・西両本願寺があるために、この<正面>は<本願寺の正面>に由来すると勘違いしている人も多いようです。 さて、その正面通りの東端に位置する史跡『方広寺石塁』上において、現在その大部分を占めている豊国神社についてお話しましょう。 巨大な石垣の上に鎮座ましますこの神社、いかにも古くからこの地にあった観を呈していますが、実はこの神社、数奇な運命をたどった末、明治11年(1878)この場所に再興されたものなのです。 正式には『とよくにじんじゃ』、でも一般的には『ほうこくじんじゃ』と呼ばれるこのお社、祭神は豊国大明神すなはち豊臣秀吉を神格化して祀っている神社です。 慶長3年(1598)8月、伏見城で息をひきとった秀吉は、当時京の都で葬送の地であった鳥辺野にそびえる阿弥陀ケ峰の山頂近くに埋葬されました。 七条通りを東へ行くと東大路で智積院(後述)に突き当たります。その少し左に、さらに東へむかうゆるい坂があります。 この坂、現在は京都女子学園の幼児・学童・生徒・学生が多数往来する通学路で俗称『女坂』と呼ばれる有名な坂道です。この坂を昇りきったところに大学があり、その奥は山で行き止まりになっているように見えますが、さらにこの山肌を登る石段があります。 |
その石段を昇っていくと山頂近くに大きな石塔があり、それが秀吉のお墓です。 この阿弥陀ケ峰、七条京阪あたりから東山を望めば正面に見える山です。さらに目をこらせば、木立の間に山頂へ向かう一本の筋が確認できますが、それが秀吉の墓所に至る石段です。ただひと氣のないところですので、女性が一人で行くのはすすめられません。 | |
秀吉は死後、『豊国大明神』と神格化され、阿弥陀ケ峰の墓所に至る参道の中腹に大規模な社殿が建築されました。それがそもそもの豊国神社でした。 慶長3年5月、病に倒れた秀吉にとって気がかりなことはまだ5才になったばかりの秀頼のこと。8月には徳川家康以下5人の有力者を枕元に呼び、『かえすがえす、秀頼のことたのみもうし候、五人の衆たのみもうし候、いさい五人のものに申し渡し候、なごりおしく候』と悲痛なまでに念を押した上、その2週間後に伏見城で63才の生涯を終えました。 しかしその後の推移は秀吉の願い通りに行くことはなく、関が原の合戦を経て徳川家康が覇権をにぎることとなりました。 そして方広寺鐘銘事件を機に豊臣氏を殲滅した家康はそれだけにとどまらず、豊臣家を祀る社寺をも、もはや無用の物とことごとく廃絶していきました。 阿弥陀ケ峰の麓、東山七条の東南あたりには当時祥雲寺という大きな寺院がありました。秀頼が生まれる前、秀吉の第1子が幼くして死んだ際にその菩提を弔うため秀吉が建立したもので、同時に豊臣家の菩提寺と位置付けられた重要な寺院でした。 家康はこの祥雲寺を廃絶させ、逆に、かって秀吉が焼き討ちにした紀州の根来寺の一派を呼び戻して真言宗智山派を復興させました。それが現在の真言宗智山派総本山智積院です。 平成3年(1991)智積院で書院の新築工事に伴う発掘調査が行われた際、祥雲寺の遺構が現れ、その規模の壮大さが確かめられました。 現在智積院の宝物館には長谷川等伯・久蔵親子による多数の障壁画が残されていて全て国宝に指定されていますが、これらの障壁画はそもそも秀吉の依頼で遺児鶴松の菩提を弔う目的で描かれたものです。しかも、その製作過程で長谷川等伯自身も久蔵を失う不運にみまわれ、我が子の菩提を弔いつつ描いたといういわくつきの障壁画なのです。幾度かの火災で原型を損ないながらも、かろうじて残されてきた秀作です。 さて阿弥陀ケ峰の太閤秀吉廟ですが、家康はさすがに秀吉の墓石には手をつけなかったものの、豊国神社についてはその社殿を全て破壊しました。さらに、その麓の参道上に新日吉神社の社殿を建立することにより、それまで豊国廟への参道であったものを、新日吉神社の参道に一変させてしまったのです。 このようにして、秀吉没後20数年威容を誇った豊国神社は完全に消滅してしまいました。 さて、明治になって事態は一変します。 明治新政府は豊臣秀吉を復権させ、逆に徳川幕府に協力的であった社寺にたいしては大規模な上地令(土地没収)を課したのです。この際智積院は大部分の寺領を没収されましたし、南禅寺に至っては江戸時代の規模の10分の1近くにまで縮小されてしまいました(後述)。 明治新政府の方針により、豊国神社は秀吉とのゆかりの深い方広寺石塁上に復興をとげました。 明治11年(1878)のことです。 250年前に破壊された、阿弥陀ケ峰の旧豊国神社境内には、かろうじて石灯籠や鉄灯篭が残っており、新しい境内へ移されました。 |
さらに桃山文化の特徴である豪華な装飾がほどこされた唐門が方広寺石塁上の真正面に移築され、後陽成天皇の筆になる『豊国大明神』の額が掲げられました。この額、旧豊国神社が破壊されて以来250年間、妙法院で保管されていたものです。 さて豊国神社の中でひときわ目立つこの桧皮葺の唐門の来歴に関しては、もう一人特異な人物、以心崇伝(いしん すうでん)について触れておく必要があります。 | |
江戸に幕府を開いた家康にとって、京における天皇・公家・寺社、さらには豊臣一派の動静は大変気がかりなものでした。様々な手段で京における情勢の把握に努めたのですが、その面で大いに協力したのが南禅寺の僧崇伝でありました。崇伝は政治的手腕を発揮して、天下僧録司(てんかそうろくし)という仏教界の人事一切を取り仕切る役を与えられたのみならず、江戸幕府が京都を統治するうえでの重要な法令であった『禁中並びに公家諸法度』や『寺社諸法度』の草案を作成した人物でもありました。これらのことから、京の人々は崇伝を『黒衣の宰相』あるいは『寺大名』と呼び、たいへん恐れたと伝えられています。たとえば大徳寺の僧沢庵が、紫の衣を着用したことを問題とし、彼を流罪に至らしめました。さらには豊臣秀頼による方広寺大仏殿再建時には、その方広寺の梵鐘に刻まれる銘文をいち早く手に入れ、江戸に知らせたのも、この崇伝の働きでした。 これらの功績により、崇伝は江戸幕府から資金援助を得て当時荒廃していた南禅寺の諸堂の復興に努めました。その意味で、彼こそは南禅寺中興の祖でもあったのです。 崇伝は南禅寺境内に自坊を構えていました。金地院という名の頭塔(たっちゅう)で、それは今も南禅寺の参道を行くと、門をくぐる手前の右側にあります。 南禅寺の整備に力を注ぐと同時に、金地院崇伝はもちろん自坊についても粋をこらした庭園や建物を整えていきました。 元和元年(1615)、伏見城が廃城となりいくつかの建物が移築されることになった際、金地院崇伝は秀吉時代に建てられた豪華な書院を引き取りたい旨申し出、幕府の許しを得て、伏見城にあった書院は金地院の方丈(本堂)として生まれ変わりました。さらに門についても幕府に願い出、その結果当時二条城に移築されていた豊臣秀吉ゆかりの唐門が金地院に引き取られることとなったのです。この唐門、伏見城にあったものとも秀吉の聚楽第に建てられていたものとも伝えられ、定かではないのですが、いずれにせよ秀吉の絶頂期に建てられて桃山文化の粋をあつめたもので、当時二条城に移築されていたのは間違いありません。 さてこの金地院崇伝、翌元和2年家康臨終の枕元で遺言を聞いた3人のうちの一人でもありました。そしてそれまでの功績から、家康の葬儀は当然彼によって取り仕切られるものと思われていました。しかし、それには問題が生じたのです。 すなわち金地院崇伝の臨済宗における流派で家康公を神格化した場合、呼称は『大明神』となります。しかしすでに秀吉が『豊国大明神』の名で祀られているだけに、それと同格の神とするわけにはいかないというわけです。 そこで急遽浮上してきたのが南光坊天海です。天海の天台宗により神格化した場合は『大権現』とおくり名され、その問題は解決します。 結局家康はこの天台流の祭祀を受けてやがては日光で『東照大権現』として祀られることとなりました。 家康亡き後、江戸へ行くことのなくなった金地院崇伝は自坊の金地院境内に東照宮を造り、遠く離れた場所から家康の冥福を祈りつづけました。 金地院境内には今も家康を祀る東照宮があり、葵のご紋の軒瓦で飾られているのはこのような因縁によるものです。 崇伝が就任した天下僧録司という役は、その後も金地院の住職が代々引き継ぎ、江戸時代を通じて幕府の意向を伝える役を担いつづけることとなりました。そしてこのことが災いして、明治新政府は南禅寺に対しては特に厳しい上地令を適用しました。寺地のおおよそ9割方が没収されたのです。現在の南禅寺から遠く離れた場所に門だけが残っている場所があるのはそういう所以によるものです。 そして金地院からは秀吉ゆかりの唐門が没収され、復興なった豊国神社へと移転させられたのです。 豊国神社のこの唐門、大徳寺および西本願寺の唐門と合わせて国宝の三唐門として大変有名な建物です。 また旧豊国神社から移された鉄燈篭は製作者・年代が明らかなゆえ重要文化財の指定を受けています。 豊国神社境内には宝物殿もあり、重要文化財指定の『豊国祭図』や秀吉・秀頼の文書・器物を展示していますが、それらについては時間があれば、というくらいにしておきましょう。 さて、秀吉ゆかりの大仏殿跡地に復興なった豊国神社ですが、阿弥陀ケ峰の旧境内地も回復しました。 豊国廟に至る参道上に建てられた新日吉神社を、明治新政府は縮小したうえ移転させたからです。 再び豊国廟に至る参道が整備され、これで豊国神社は一安心というところでした。しかしこの問題、このままでは終わらなかったのです。昭和になって再燃することとなります。 すなわち、豊国神社は明治新政府の処置により、豊国廟へ至る参道の全てが豊国神社に帰属するようになったものと思っていたのですが、新日吉神社は豊国廟への参拝通路を空けたもののその所有権については移転していないと主張したのです。つまり、現在京都女子学園に至る通称『女坂』の部分を、二つの神社がそれぞれ所有権を主張したと言うわけです。 この問題、昭和を通じて解決を見ることなく、両神社あい譲らないまま便宜上女坂の中心で線引きし、それぞれが管理することとしました。 しかし所有権のはっきりしない私有地ゆえ道路交通法の適用ができないまま不法駐車が横行することとなりました。やがて学園や周辺住民の苦情もピークに達したために、ついに両社歩み寄り、結局境界を定めないままに京都市へ無償貸与するということで決着をみました。時すでに昭和は終わって平成元年のこと、ゆうに350年を越す土地所有権騒動でした。 そして今も、この所有権争いの痕跡を示すかのように、女坂の右側に『新日吉神社』左側に『豊国神社』の石柱が立っています。 次へ |